It's a rumor in St. Petersburg

アラサー学生です。主にまんがの感想を書こうと思っています。

【考察】『ヴィンランド・サガ』② 「愛」について

 ※考察に必要な範囲で2019年3月時の既刊21巻までのネタバレがあります。

 

 引き続き、ヴィンランド・サガの考察エントリです。目次のうち、青字が今回の対象範囲です。

 

  • 目次
  • 1. あらすじ

  • 2. そもそもヴィンランド・サガとは

  • 3. 物語の構成

    4. るろうに剣心オマージュ

    5. 「愛」とはなにか

    6. クヌートとトルフィンの事業

  • 7. 罪と贖い、怒りと赦し

 

前回の考察エントリはこちら

www.anastasia1997.tokyo

 

5.愛とは何か

 この物語の中では、「愛」というものが、キーワードとして出てきます。この物語は主人公トルフィンが「愛」を知り、「愛」を実践していく物語なのだと思います。私はこの解釈にすごく時間がかかりました。

 この物語における「愛」というのは、現代ジャパンにおいて「愛」という言葉でイメージされるものとは全く違う概念なんですよね。例えば、家族間や恋人同士でお互いを大切に思う気持ちを指して、「愛」と呼んでいるのではない。もし、そういうものを「愛」と呼ぶのであれば、この物語はものすごく愛に満ちた世界です。兄を助けるために、敵を殺す。王子を守るために村人を皆殺しにする。結果は残虐かもしれないけれど、その原動力は「愛」であり、そこには「愛」があると言える。しかし、この物語においては、それは単に自分にとって大切なものを優先するだけの「差別」に過ぎないとされています。「愛」ではない。では、「愛」とはなにか?それは「等しく平等に自分を分け与えること」。そのため、人々が自分の大切なもの、優先度の高いもののために殺し合うヴァイキングの世界には「愛」は存在し得ない。人は「差別」するものだから、人間の心には「愛」はないと結論付けられています。

 

 

 

 ただし、ごくわずかな人間は「愛」の意味を知っています。物語の第1部には、愛の意味を知る人間が3人登場します。(神父除く)それは、トールズ、アシェラッド、クヌートです。

 

トールズ:

敵を含め、全ての相手を尊重し、傷つけない道を選ぶ。(というか、敵は別にトールズにとって敵ではない)見ず知らずの人間でも、奴隷でも、死にかけた人間でも等しく愛し、助ける。最期まで「愛」を知るもの=「本当の戦士」として生き、暴力の前に命を落とす。

アシェラッド:

人が自分の欲望のために殺し合うヴァイキングと暴力の世界を嫌悪している。「愛」の意味を知りながらもヴァイキングの世界から抜け出せない。しかし、「愛」を知ったクヌートに王者の素質を見出し、クヌートのために死を選ぶ。

クヌート:

最初はダメダメ王子だが、「愛」の意味を知り、王者への道を歩み始める。人の心に「愛」がないことを悟り、殺しあうだけの人間の世界を変える決意をする。「愛」を知るからこそ、自分の影武者として死ぬ奴隷にも丁重に接する。それは、彼が奴隷の境遇に同情的だからでも、優しいからでもない。

 

 ヴィンランド・サガの世界では、個人が人を大切に思う気持ちが他者を害し、暴力の応酬へ繋がっています。万人の万人に対する闘争状態、ただし身内や仲間にだけは優しい、みたいなかんじ。「愛」を知る王者の使命は、その闘争を終わらせることなのだと思います。

 トルフィンは第1部では「愛」の意味も価値も全然全然しらねーし、しったこっちゃないし、きょーみねーぜ!(普通の)戦士として生き、戦士として殺し、戦士として死ぬんだぜ!いつ死んでもぜんぜんかまわねーぜ!って感じです。

6.クヌートとトルフィンの事業

 第2部でクヌートと「愛」を知ったトルフィンは二人で1つの事業を分け合うことを誓い合います。

 

クヌートの役割:

「愛」から最も遠い人間・戦士たちを束ね、地上に楽園を作る。楽園というのは「愛」のある王国かな。クヌートの王国では人はある程度の平和を得られるが、それによって制圧されたり侵攻される側の犠牲もでる。

トルフィンの役割:

クヌートの事業によって犠牲になり虐げられる人たちが生きていける場をクヌートの手の届かない場所に作る。

 

 つまり、トルフィンの役割はクヌートが作る世界のセーフティーネットです。なんでクヌートがそんな事業をやりたがっているかというと、彼には「神」に対する怒りがあるからです。地上に楽園がなく、人が「愛」を知らないなら、人の生は殺し合い奪い合い苦しみ続けるだけで終わってしまう。ラグナルの死や自分を巡って殺し合いを行うヴァイキングたちを見て心底そんな世界を嫌悪したからです。

 ちなみにクヌートが「神」・「神の定めた条理」と呼ぶものは、キリスト教的な「神」でもあるんでしょうが、どちらかといえば人間が生きる上で発生するの負の側面に対する比喩なんだと思います。自然状態で人間をほおっておくと、ある程度人数がそろえばある程度の集団ができます。そうした集団が複数あれば、戦争がおこり、強いものは弱いものを虐げる。人間というのはそういうもので、それが自然の摂理として1000年代の北欧やイングランドでは受け入れられています。そうした自然の摂理をクヌートは神の定めた条理と呼んでいるんだと思います。そうした条理に逆らって、戦争や略奪をなくすためには、クヌートが誰より大きな力をもってそうした集団を制圧していく必要がある。同時に、その担い手として最も「愛」から遠い存在であるヴァイキングたちを起用し、意味なく殺しあっている彼らに生きる意味と価値を与えるというのがクヌートの事業なわけです。クヌート… 世界を壊し、世界を創る男…。

7.罪と贖い、怒りと赦し

 ヒルドさんとトルフィンって、このテーマを凝縮した二人だと思うんですよ。ヒルドさんって、そのままトルフィンの写し鏡という気がします。どちらも理不尽に自分の家族を暴力によって奪われ、その怒りを人生の根底に持って生きてきた。特に、二人とも父親がいい父親すぎるんですよね。ヒルドさんの回想シーンで、お父さんがヒルドさんを天才とほめるシーンは何度読んでも泣いてしまいます。家の中で家族みんなで仲良くごはんを食べてる暖かいシーンなんですよ。でも、今のヒルドさんは寒い雪山に一人で生きてる。この落差がトルフィンが奪ったものの大きさを感じさせます。

 

 

 

 ヒルドさんはトルフィンが生きて償いをする限り、平和な国を作る限り、トルフィンをいつか赦さなくてはなりません。トルフィンが示さなくてはいけないものは罪に対する償い、ヒルドさんが示さなくてはならないものは怒りに対する赦し。トルフィン自身もアシェラッドやフローキに父親を奪われており、フローキに対する怒りがある。トルフィンがフローキに剣を突き立てれば、その刃はそのままヒルドさんの矢となってトルフィンの胸を貫くわけです。普通の人なら赦さなくて憎んで生きていいのだと思いますが、トルフィンが最初の手段を選び続け、平和な国をつくるためには赦さなくてはならない。「愛」を実践しなくてはならない。「愛」を知ったからといって、簡単にできることではない。厳しい人生だと思います。今後のトルフィンの課題として、人の罪を赦すことができるのかということが課題なんだと思います。

8.最後に

 これから一角獣の角を売って資金を作って、それからヴィンランドにむかうわけですから、まだまだ先は長い。そろそろアフタヌーンではヨモスボルグ編が終わりそうですから、新展開が楽しみです。アニメも楽しみ。

 

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