It's a rumor in St. Petersburg

アラサー学生です。主にまんがの感想を書こうと思っています。

【感想】ミュージカル『アナスタシア』

ミュージカル『アナスタシア』、観てきました〜。

 

www.anastasia-musical-japan.jp

 

まじでまじでまじでほんとーーーに良かった。1997年に公開されたアニメ映画の『アナスタシア』をミュージカル化したものなのだけど、アニメからミュージカルに仕立て直すにあたってより現実的なお話になっていた。ドラマチックな貴種漂流譚に加えて、混迷の時代を生きる中で傷を負って生きてきた人たちのお話というか。『アナスタシア』ってアナスタシアを喪って傷ついてきた人たちが、アナスタシアを信じることで傷を癒やしていく旅路のお話なんだな〜と思った。たぶんアナスタシアって、彼ら・彼女らが時代に翻弄されて失ってきたものの象徴なんだよね。

 

その最たる人がおそらくアニメ版のラスプーチンに変わりアーニャを追い詰める役として登場するグレブだと思う。彼こそ皇太后にも負けぬほどアナスタシアを喪ったことに傷つき、彼女が心のどこかで生きていることを願い続けてきた人に思える。

彼はエカテリンブルクで皇帝一家を処刑した兵士の息子で彼自身もボリシェヴィキの将校という設定。グレブ自身は「父は誇りを持ってその『重要な任務』を全うした」と言うけど、これには彼の願望が多分に含まれていて、そうでなくてはならないと彼が思っているということだと思う。また、彼は処刑の日にその銃声とその後の静寂を聞いた人でもあり、「その日、世界は時を止めた」と語る。

彼と彼の父は帝政を打破し、新しい秩序を支えていく革命側の人間で、「重要な任務」は文字通り重要かつ誇りを持って行われるべきことなんだろう。一方でその「重要な任務」を全うしたことにより、印象的な皇帝の末娘アナスタシアを含む、一つの家族が凄惨な結末へ追いやられた。人間の自然な感情として、彼も彼の父もそのことに深く傷ついたのではないかと思う。そしてそれに傷つくこと自体にも、革命に生きるものとして葛藤があったのじゃないだろうか。その末にグレブの父は命を、グレブは父を喪う。こうした全てにグレブは傷つき続けてきたんだと思う。

アーニャをひと目見たときからグレブは彼女を気にかける。自覚があったかはわからないけど、アーニャにアナスタシアの存在をダブらせたんだと思う。明確なセリフはないけど、似てるらしいし。上官の命令があったとはいえ、彼がパリまで彼女を追いかけて心底彼女を心配して行動を止めようとするのも、過去に凄惨な結末を迎えた一人の少女を知っているからであり、そのことに彼が苦しみ続けてきたからだと思う。これもまた自覚があったかはわからないし、あったとして認められなかっただろうけど、心のどこかでアナスタシアが生きていてくれたならとずっと思い続けていたんじゃないだろうか。それは現実味の薄い悲しい願いに近いものだったかもしれないけど。アーニャと出会ったときにその気持ちが溢れたんだと思う。そしてアナスタシアによく似た、同じ運命をたどりつつあるアーニャを絶対に守りたいという強い思いも。彼はアーニャがアナスタシアであってほしいし、あってほしくない。この傷と葛藤がグレブという人なのだと思えた。

最終的にグレブはアーニャをアナスタシアだと信じ、しかし引き金を引くことなく去っていく。彼女を信じること、彼女を守ること。これが彼とっての救いだったんだろう。グレブは「私は父の息子ではなかったということだ」というが、父と同じ精神を持ち、しかし殺すのではなく守ることで同じ運命をたどらずにすんだのだと思う。

 

 

 

 

ディミトリもまたアナスタシアを喪ったことで傷ついた一人だと思う。おそらく初恋の少女なんだろう。彼は苦しい環境の中でも、負けずにたくましく生き抜き、そのことに誇りも持っている。一方で、狭い世界で貧しい毎日や家族のいない孤独に耐えて生きてきた。彼にとってアナスタシアはずっと心に祕めてきた美しい思い出だったんだと思う。アナスタシアを求める旅をアーニャとヴラドとしながら、そのことを「In a Crowd of Thousands」まで一度も明かそうとしなかった。ずっと忍ばせてきた美しい思い出。その思い出の少女が死んだということはきっとどこかで彼にとっての傷となっていたに違いないと思う。ディミトリは皇太后に「アーニャは傷を癒やすために生きてきた、でなければロシアは永遠に癒えない傷のまま」と言う。これって最初に聞いたときはアーニャ自身が傷を癒すために生きてきた、という意味かなと思ったのだけど、傷つきながら生きるロシアの人々の傷を癒すためにアーニャは生き延びたという風にも聞こえるなと思う。どっちでもあるのかもしれない。そして、後者にはディミトリ自身もきっと含まれている。アナスタシアが生きている、それがアーニャであると信じることで彼もまた人生の傷を癒やし、新たな希望(報奨金も含めて)を抱くことができたのじゃないだろうか。

 

太后は言うまでもなく、最愛の家族を革命で喪い、その後も偽物たちに傷つけられ、打ちのめされ続けてきた人。アナスタシアが生きていてほしいと望むことすらも耐えられないほど、それでも諦めきれないほど彼女にとってアナスタシアは心の底からの望みだった。

 

そしてアーニャ自身。家族も記憶も革命の中で全てを失った人。パリに家族がいるかも。帰る場所が、待っていてくれる人がいるかも。自分がアナスタシアと信じること。そして家族がそれを認めて信じてくれること。それが彼女の希望であり、傷を癒やす術だった。


グレブ、ディミトリ、皇太后、アーニャ。みなアナスタシアを喪ったことで傷ついてきた。私はオペラ座のバレエのシーンが本当に素晴らしいと思ったのだけど、このシーンはある意味で同じ傷を持ち、救いを求める人たちが集うシーンということなのだと思う。「誰が彼女を助け出せるのか 運命が我らここに集めた」という歌詞、もう本当に素晴らしいと思う。


リリーが最後に「彼女は本当にアナスタシアだったのか」と問いかけるが、そこに明確な回答はない。おそらくこのお話においてアーニャがアナスタシアであるという客観的な事実よりもアーニャがアナスタシアであると信じることが大切なのだと思う。なんなら、主題的にはアーニャがアナスタシアでなかったとしてもこのお話は成立する気がする。実は最初に観劇したときに、ミュージカル版はアニメ版よりアーニャ=アナスタシアであると観客が確信できるシーンがちょっと弱められているなと思っていたのだけど、それって「彼女こそが皇女アナスタシア!」というカタルシスよりも混迷の時代を生きた人の心を描きたいということなのかななどと思った。アフタートーク石川禅さんが人間ドラマを感じてほしいと語っていたが、オーソドックスなラブストーリーに見せかけてビターな大人向けの物語なのかもしれない。

 

 

日本語版のCD欲しいよ~とりあえずブロードウェイ版をずっと聴いています・・・

 

2019年にドイツで観たときの観劇ブログ・・・

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