※※感想を書くのに必要な範囲でネタバレがあります。
薔薇王74話~75話、リチャードを取り巻く家族の話で泣けちゃいますね。。セシリーにとって生きている息子はリチャードだけだけど、リチャードにとっても生きている家族、セシリーだけになってしまった。。
本日6日は月刊プリンセス11月特大号の発売日🌹✨
— 薔薇王の葬列🌹アニメ化決定🌹 (@baraou_info) October 6, 2021
「薔薇王の葬列」75話はセンターカラーで登場。冒頭で泣き、また最後で涙が止まらなくなりました…。ぜひ、ご覧ください。
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リチャードと家族
やっぱり74話の葬儀、アンのものだったのか~~という衝撃。アンの最後の姿やリチャードとどういうコミュニケーションがあったのか、みたかったな。彼女は自分の人生の大半を人の都合のために生きて、最後の本当にわずかな時間まで報われることがなかったと思うと、あまりに長くてつらい。
アンにとって、子エドに未来を渡してあげられたこと、それは唯一の救いになったと思う。72話冒頭で小エドと子マガ姉弟で糸を紡いでいたけれども、それはギリシャ神話の運命の女神のオマージュだと思う。彼女らの紡ぐ糸の長さで人の寿命は決まると言われている。75話でその糸車は壊れていて、これは定められた寿命や運命から子エドが解放されたことを示唆しているのかなと思った。
リチャードとアンとエドワードの親子の姿はヨーク公とセシリーとリチャードの親子の姿との対比として描かれていると思う。アンが苦しんできたことにセシリーもずっと苦しんできたんじゃないだろうか。”女”の義務は目の前の”誰か”をただ愛すること。野心の道に夫が突き進む中で、追い詰められた妻の存在があったことだと思う。登場しないけど、アンの母親もきっとそんな人生だったのかもしれない。繰り返す人の営みの中で、リチャードとアンはひとつ前の世代より少しはよい形で結末を迎えることができたことはかすかな希望だけど、やはりかすかで、それは悲しい。
セシリーの告白、やっぱりそうだったか…という気持ちがある。ここにも、時代的な女性性の歪曲みたいなものが根本にあるんだと思う。薔薇王の作品を通して、登場人物たちが持つ女性に対する軽視や蔑視みたいなものを感じる部分は随所にあって、特にセシリーとリチャードには女性嫌悪ぐらいの部分を感じていた。その背景に、やはり今回明かされたことは強い関連があるのだと思う。女性であることは男性を堕落させる、女性であること自体が罪という考えがセシリーにあり、それをリチャードに見出し、ずっと吹き込んでいたと思う。エリザベスのことも、すっごい嫌いなのも納得。つらい。というか、この考えは現在でもかなり根強い考え方だと思う。多くの人が信じる幻想は強い力をもってルールとなり、個人を押しつぶしていく。その強力な力の前に個人の力というのは、なんとはかないものかと日々思う。
同じモチーフのリフレイン
薔薇王を一巻から読み返したのだけど、2部のバッキンガムと森の館ですごすシーン辺りから1部と同じ事柄が発生しているように思える。まさに「二度と戻らぬあの日」が再び戻ってきている。
1部と2部で同じ出来事が起こっているのに、登場人物が少しずつ違ったり、同じ人物同士でも違うコミュニケーションをとったことで違う結末を迎えている。75話のセシリーの告白と、リチャードとセシリーの対話は現時点ではかなり衝撃的で救いにはならないと感じた。結局、リチャードは呪いとともに母を永遠に失ったって感じだ。
しかし、1部ではこの後、セシリーはヘンリーにリチャードに対する呪いを吹き込み、結果としてリチャードは拒絶され、ヘンリーを手にかけてしまう。だけど、今回は違った結末が訪れるんじゃないかという気がしている。今のセシリーはリチャードの死を願ったりしていないと信じたいし、リチャードを助けるために行動してくれるのではないかと期待している。今後のセシリーの行動が最終的にボスワースでリチャードを救うことにつながってほしい。私個人の希望としては、1部は生まれた日を呪うという、生の否定で終わったが、2部の生の肯定で終わってほしい。「滅びる為に今日を生きる」のではなく、「この世に生まれ出会えた」であってほしい。昔聞いた好きな言葉に「生きることに期待する」という言葉があるんだが、リチャードにも生きることに、自分の人生に希望をもってほしい。
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